こんにちは、あちです。
今回は、埼玉県長瀞町に鎮座する「寳登山神社(ほどさんじんじゃ)」をご紹介します。

日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝承をはじめ、“火止(ほど)”の信仰や山の神への崇敬が今も息づく歴史ある神社です。
秩父三社の一社として知られ、御祭神は神武天皇、大山祇神(おおやまづみのかみ)、火産霊神(ほむすびのかみ)をお祀りしています。
火難除けや諸難除けの神として、古くから多くの方に信仰されてきました。
この記事では、寳登山神社の「由緒」「ご祭神とご利益」「見どころ」「アクセス情報」まで、初めて訪れる方にもわかりやすくまとめています。
参拝をご検討中の方や、神社の歴史に関心のある方の参考になれば幸いです。
開閉式(アコーディオン)について
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寳登山神社とは?
寳登山神社は、山のふもとに本社を、山頂に奥宮を構える、自然に包まれた神社です。

寳登山神社の由緒
創建の伝承|日本武尊と火止山
寳登山神社の創建は、第12代景行天皇の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)に由来します。
日本武尊は各地の平定を命じられ、東征の帰途、秩父の美しい山に惹かれて立ち寄りました。
山頂を目指す途中で山火事に遭いましたが、山犬の導きで無事に火が鎮められたと伝えられています。
この神の加護に感謝した尊は、山頂に神武天皇・大山祇神・火産霊神の三柱を祀り、山を「火を止める山=火止山(ほどさん)」と名付けたことが寳登山神社の始まりとされています。
日本武尊(やまとたけるのみこと)とは?
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、第12代・景行天皇の皇子で、『古事記』『日本書紀』に登場する伝説的な英雄です。
幼名は「小碓命(おうすのみこと)」とされ、幼い頃から武勇に優れた人物だったと伝えられています。
父・景行天皇の命により、西は熊襲(くまそ)や東は蝦夷(えみし)など、各地の反乱勢力を平定するため、全国を巡ったとされています。
特に東征では、伊勢神宮に仕える叔母・倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授かり、それを携えて数々の困難を乗り越えました。
その中には火攻めを受けた際に、草薙剣の力で難を逃れたという伝承もあります。
しかし東国からの帰途、伊吹山の神の怒りに触れて病に倒れ、最期は能煩野(のぼの・現在の三重県亀山市)で亡くなったと伝えられています。
その後、尊の魂は白鳥となって飛び去ったとされ、各地に「白鳥伝説」や「白鳥塚」などの伝承が残されています。
現在では、武勇と開拓の象徴として、多くの神社で神格化されてお祀りされています。
山名の由来と「寳登山」への改称
もともと「火止山」と呼ばれていたこの山は、山火事を鎮めた日本武尊の伝承に由来します。
その後、時代が下るにつれて「寳登山(ほどさん)」という表記が用いられるようになりました。
「寳」には尊く神聖なもの、また地域の人々にとっての“宝”という意味が込められています。
また、弘仁年中、弘法大師(空海)が寳登山神社に参詣した折、光り輝く宝珠が山に向かって昇(登)っていったのを見たという伝説が残っています。
こうした経緯から、「火止山」から「寳登山」への改称は、信仰の深化とともに自然な流れであったと伝えられています。
平安期の発展|玉泉寺の創建
平安時代の永久元年(1113年)、僧・空圓(くうえん)がこの地に草庵を結び、後に玉泉寺を開きました。
これにより、山の神を祀る神社と仏教寺院が共に祀られる神仏習合の形が整えられていきます。
中世〜江戸時代|寳登山大権現としての信仰
中世から江戸時代にかけては、玉泉寺が別当寺として神社を支え、「寳登山大権現」として神仏習合のもと信仰されてきました。
この時代、神仏一体の祭祀は全国的に一般的であり、寳登山神社も地域の信仰の中心となっていました。
明治以降の変遷|神仏分離と現在
明治期の神仏分離令により神社と寺は分かれましたが、現在も両者は長瀞の信仰を支え続けています。
寳登山神社の御祭神

①神名 | 神日本磐余彦尊 (神武天皇) | 大山祇神 | 火産霊神 |
②よみがな | かんやまといわれひこのみこと (じんむてんのう) | おおやまづみのかみ | ほむすびのかみ |
③ご神徳 (ご利益) | 国家安泰・開運招福を願う信仰があります | 山の神として、山林守護・五穀豊穣を願う信仰があります | 火の神として、火難除け・災害除けの守護神として信仰されています |
寳登山神社の見どころ
境内マップ(無料配布)について
寳登山神社の授与所では、イラストレーターこいしゆうかさんによる「境内マップ」が配布されています。
境内の主要な見どころやルートがひと目でわかるので、初めての方でも安心して参拝を楽しめます。
無料で受け取れるので、散策前にぜひチェックしてみてください。
※寳登山神社の境内マップ(PDF)はこちら(公式サイト)からご覧いただけますが、開く際は通信環境やデータ量にご注意ください。
寳登山神社の社殿

江戸末〜明治初頭に再建された社殿
現在の寳登山神社の社殿は、江戸時代末から明治初頭にかけて再建されたもので、本殿・幣殿・拝殿が一体となった「権現造(ごんげんづくり)」の形式をとっています。
社殿には精巧な彫刻が施されており、特に拝殿の欄間や側面には、中国の孝行物語「二十四孝(にじゅうしこう)」のうち八つの場面が描かれています。
さらに、三国志・史記・漢武故事など、他の中国故事を題材とした彫刻も一部に見られます。
二十四孝とは?
二十四孝(にじゅうしこう)とは、古代中国の儒教思想に基づいて、親孝行の模範として挙げられた24人の人物の行いをまとめた教訓集です。
元は元代(13世紀後半〜14世紀初め)の学者・郭居敬(かくきょけい)によってまとめられたとされ、中国では長く家庭教育や道徳の教材として広まりました。
日本にも江戸時代に伝わり、寺子屋などで盛んに教えられたほか、浮世絵や襖絵、彫刻の題材としても人気を博しました。
内容は、
・氷を割って魚をとった話(王祥)
・親のために蚊に刺されるのを我慢した話(呉猛)
・母を思うあまり子を埋めようとした話(郭巨)
・親の病気を治すために自らの乳を飲ませた話(唐夫人)
など、現代の感覚から見ると極端にも感じられる話も含まれますが、当時は「親を敬う心」の大切さを子どもたちに教える道徳教材とされていました。
寳登山神社の社殿欄間に彫られた「二十四孝」は、そうした親孝行の精神を表現した伝統的な装飾であり、建築彫刻としても高い文化的価値があります。
再建に尽力した玉泉寺の住職・榮乗
この社殿再建を成し遂げたのは、当時の別当寺・玉泉寺の住職であった榮乗(えいじょう)です。
榮乗は茨城の出身で、天保9年(1838年)に40歳で玉泉寺に迎えられました。
弘化2年(1845年)に社殿の再建を発願し、弘化4年(1847年)に着工。
着工までには資金調達などの準備に時間を要したとされ、再建事業は困難を極めました。
その後、榮乗は明治を迎えると僧籍を離れ、神職の道を志して「小菅是道(こすげ これみち)」と名乗り、引き続き再建に尽力します。
明治4年(1871年)に本殿、明治7年(1874年)に拝殿が完成し、29年の歳月をかけて社殿の再建を果たしました。榮乗は翌年、76歳でその生涯を閉じています。
彩色された彫刻と現代の改修
本殿や拝殿には、武州明戸(現在の埼玉県熊谷市)出身の彫刻師・飯田岩次郎による精緻な彫り物が施されています。
これらの彫刻は、平成21年(2009年)の御鎮座1900年を記念して行われた改修工事で彩色が施され、現在も森の中に映える荘厳な姿で保存されています。
二十四孝 八つの場面と三国志の勇将たち|境内彫刻の見どころ

【郭巨(かくきょ)】写真右側
貧しい暮らしの中でも母を大切にしていた郭巨は、食料が足りず母に十分な食事を与えられないことを悩み、自分の子を埋めようと決意します。
穴を掘っていると中から黄金の壺が現れ、「孝行への報い」とされたと伝わります。
この物語は、親を思う誠意を称えるものとして語り継がれています。
【王祥(おうしょう)】写真左側
父の再婚相手である継母を慕い、冬に継母の好物である鯉を求めて凍った川へ向かいます。
王祥が氷を割ると、そこから鯉が現れたとされ、孝行が天に通じた逸話として語り継がれています。
これは、清らかな心と行動が報われた象徴的な教訓話です。

【帝舜(ていしゅん)/ 大舜(たいしゅん)】写真右側
継母や弟に疎まれ、父からも命を狙われるという苦難の中にあっても、舜は一度も反抗せず、誠意をもって家族に尽くしました。
田畑では象や鳥までもが助けに現れたと伝えられ、「孝行が天を動かした」と讃えられています。
この物語は、逆境にも変わらぬ親孝行が、聖王へと至る道を開いたとされる教訓話です。
【唐夫人(とうふじん)】写真左側
年老いて歯が抜けた姑が食事を取れず困っていたため、唐夫人は自らの母乳を与えて養い続けました。
毎朝髪をといて世話を欠かさず、数年にわたり介護を続けたと伝えられています。
この姿は、実の母ではなく姑に尽くした「孝」の理想として語り継がれています。

【郯子(たんし)/ 剡子(えんし)】写真右側
目の見えなくなった両親に鹿の乳を飲ませようと、自ら鹿の皮をまとって鹿の群れに紛れ、乳を搾って与えていたと伝えられています。
ある日、猟師に矢を向けられますが、親孝行の話を聞いた猟師は矢を収めました。
このように、危険を顧みず両親に尽くす姿が、孝行の手本とされています。
【仲由(ちゅうゆ)/ 子路(しろ)】写真左側
幼い頃は貧しく、重い米を担いで遠くの親元まで運ぶなど、懸命に親孝行を尽くしていたと伝えられています。
長じて孔子の弟子として名を成した後も、両親が亡くなると丁寧に供養を続け、「今は裕福になったのに、もう親孝行ができない」と嘆いたとされます。
生前も死後も親を敬う姿が、孝の手本として語られています。

【楊香(ようこう)】写真右側
父と山に入った楊香は、突然現れた虎に父が襲われそうになりますが、若い身ながらも自分の命を顧みずに父をかばおうとしました。
その勇気と親を思う強い心に感動したのか、虎はその場から立ち去ったと伝えられています。
この物語は、命を懸けてでも親を守ろうとする心が奇跡を呼んだ、感動的な孝行の教訓話として語り継がれています。
【孟宗(もうそう)】写真左側
病気の母が真冬に「筍が食べたい」と口にしたため、孟宗は雪深い竹林へと分け入り、天に祈りながら雪を掘り続けました。
すると不思議なことに、土の中から筍が現れ、孟宗は喜んでそれを母に食べさせました。
この逸話は、親を思うひたむきな願いが天に通じた、よく知られた孝行話として今も広く語られています。

この彫刻は、中国の英雄・関羽が名馬「赤兎馬(せきとば)」にまたがる姿を表現したもので、忠義や勇気の象徴として知られています。
関羽は劉備の義弟であり、『三国志演義』にも登場する武将です。
赤兎馬は「一日に千里を駆ける」と伝えられ、関羽が曹操から授かった逸話で知られています。

「長坂坡の戦い」は、曹操の大軍が劉備軍を襲った際、趙雲が主君・劉備の幼い息子「阿斗」を守りながら、単騎で敵陣の中を突き進み、無事に救出したというエピソードです。
趙雲は愛馬・白龍にまたがり、涯角槍を手にして勇敢に戦う姿が彫刻に表現されており、その忠義と武勇がうかがえます。
この他にも、「西王母と東方朔」や「黄石公と張良」を題材とした脇障子の彫刻や、「鯉が滝を登って龍となる」という中国の故事「登竜門」にちなんだ彫刻なども見ることができます。

ブログや写真では伝えきれない美しさ、ぜひ現地でご自身の目で確かめてみてくださいね。
奥宮
寳登山神社の奥宮は、標高約497.1メートルの宝登山山頂に鎮座する境内社で、神社創建の由緒に深く関わる神聖な場所です。
境内社とは?
境内社(けいだいしゃ)とは、神社の境内にある小規模なお社(やしろ)のことです。
主祭神とは別の神様をお祀りしている場合が多く、「末社(まっしゃ)」「摂社(せっしゃ)」とも呼ばれることがありますが、厳密には社格や関係性によって使い分けられます。
寳登山神社では、藤谷淵神社や水神社、日本武尊社、宝玉稲荷神社などが境内社として祀られています。


社伝によれば、西暦110年頃、第12代景行天皇の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰途に宝登山に登り、山頂で神霊を祀ったことが神社の始まりとされています。
その途中、山火事に遭遇しましたが、山犬(大口真神)が忽然と現れ、火を消し止めて道案内をしたという伝承が残されています。
この出来事が「火止山(ほどさん)」の山名の由来ともなっています。
奥宮には現在、神日本磐余彦尊(神武天皇)、大山祇神、火産霊神の三柱が祀られており、日本武尊による創建伝承を今に伝えています。


毎年5月2日(八十八夜)には「奥宮祭」が行われ、境内の日本武尊社から御神霊を神輿にて山頂へ遷す神事が執り行われます。
社前では神楽や奉納演武も催され、この祭礼は「ツツジ祭り」とも呼ばれています。
また、秩父地方ではこの日が農作業開始の目安とされてきました。
※奥宮へのアクセス方法(ロープウェイ・登山道)については別記事で詳しくご紹介しています。


日本武尊みそぎの泉
社殿の奥には、「日本武尊のみそぎの泉」と呼ばれる神聖な湧き水があります。
この泉は「玉の泉」とも称され、神社創建の伝承と深く関わる重要な場所です。


日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の帰途、寳登山に登る前にこの泉で身を清めたと伝えられています。
日照りや長雨が続いても枯れることがないとされる湧き水は、現在も静かに湧き続けています。
泉は「日本武尊社」の近くに位置し、神聖な空気に包まれた空間となっています。
信仰の対象であるため、参拝者が立ち入ったり、投げ銭をしたりすることはできません。
この泉は、日本武尊が山頂に向かう際の「禊(みそぎ)」の場として語り継がれ、神社創建の由緒を象徴する場所として大切にされています。
日本武尊社
寳登山神社の境内にある「日本武尊社(やまとたけるのみことしゃ)」は、神社創建の由緒に深く関わる日本武尊をお祀りする境内社です。


社伝によれば、日本武尊は東国平定の帰途に寳登山へ立ち寄り、山頂を目指す途中で山火事に遭遇しますが、神犬(山犬)の助けによって難を逃れ、神々を祀ったことが神社創建のはじまりとされています。
その伝承に基づき、のちに日本武尊の御霊をお祀りするために設けられたのが、この「日本武尊社」です。
主祭神として祀られているわけではありませんが、神社創建の原点にかかわる人物として、その功績とご縁を顕彰する象徴的な存在となっています。
社の近くには、尊が登頂前に身を清めたと伝えられる「みそぎの泉(玉の泉)」もあり、神話的な舞台を今に伝える神聖な一角となっています。
藤谷淵神社
寳登山神社の境内にある「藤谷淵神社(ふじやぶちじんじゃ)」は、もともと現在の長瀞町長瀞にあたる旧・藤谷淵村に点在していた八社の神社を、明治時代に境内へ合祀した神社です。


地域にゆかりのある氏神様のご神霊をひとつに祀ったこの社は、今も地元の人々の信仰を集め続けています。
合祀された神々と御祭神
①神名 | 伊勢大神 | 八坂大神 | 野栗大神 | 諏訪大神 | 琴平大神 | 熊野大神 | 榛名大神 | 竃三柱大神 |
②ご祭神 (ふりがな) | 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 豊受大神 (とようけのおおかみ) | 素戔嗚命 (すさのおのみこと) | 野栗大神 (のぐりのおおかみ) | 建御名方神 (たけみなかたのかみ) | 大国主命 (おおくにぬしのみこと) | 伊弉冉命 (いざなみのみこと) | 埴山毘売命 (はにやまひめのみこと) | 奥津比古命 (おくつひこ) 奥津比売命 (おくつひめ) 火産霊命 (ほむすびのみこと) |
③補足説明 | 伊勢神宮の主祭神 | 疫病除けの神として信仰される | 田畑の厄除け神とされる地元の神 | 諏訪大社の祭神、武神 | 縁結びや開運の神 | 熊野信仰の中心神 | 土地・陶器の神 | 竈・火の守り神 |
宝玉稲荷神社
寳登山神社の境内にある「宝玉稲荷神社(ほうぎょくいなりじんじゃ)」は、主に“失くしもの探し”で知られるお稲荷さまです。


本殿の裏手に位置しており、境内の参道沿いからもお参りが可能です。
何かを失ったときにこの神さまに願うと、見つかったという声が多く寄せられています。
ご祭神は、農業や商業の守り神として信仰されている倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、豊かさをもたらす神さまとしても広く知られています。
この神社では、失くしものだけでなく、願いごと全般の成就(諸願成就)や、大きな目標の達成(大願成就)、困難を避ける力(諸難除け)、勝負運・金運など、さまざまなご利益が信仰されています。
境内にはきつねの像が並び、お参りの目印にもなっています。
華美な装飾はありませんが、落ち着いた雰囲気のお社です。
倉稲魂命は、どんな神様?
神名 | 倉稲魂命 |
読み仮名 | うかのみたまのみこと |
主なご神徳 | 五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、開運招福 |
ご神徳の特徴 | 穀物や植物を司る神として古くから信仰され、特に稲の霊=稲荷信仰と深く関係する。農業、商業の守護神として広く信仰されている。 |
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は、『日本書紀』に登場する穀物や食物をつかさどる神様で、「お稲荷さん」の名で広く知られる稲荷信仰の中心的な神です。
「倉」は穀物を納める蔵、「稲」は食物、「魂(みたま)」は神霊を意味し、合わせて「穀物に宿る神聖な霊」という意味が込められています。
『古事記』では「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」と記されており、表記の違いはあるものの、いずれも同じ神格として信仰されています。
この神様は、伏見稲荷大社(京都)をはじめ、全国各地の稲荷神社で祀られており、日本の民間信仰の中でも特に身近な存在です。
境内に見られる狐像は、この神様の神使(しんし)=眷属(けんぞく)であると伝えられています。
天満天神社
寳登山神社の「天満天神社」は、学問の神様として知られる菅原道真公(すがわらのみちざねこう)を祀る境内社です。


この神社は、寳登山神社の境内に鎮座し、特に学業成就や受験合格を願う人々から信仰されています。
例年、「初天神」と呼ばれる祭典が行われ、児童や生徒が集まって書き初めなどを奉納し、学業向上を願う伝統があります。
現在も、学問や教育に関わるご利益を求める多くの参拝者が訪れる、寳登山神社の重要な境内社の一つです。
菅原道真公は、どんな神様?
神名 | 菅原道真公(天神) |
読み仮名 | すがわらのみちざねこう |
主なご神徳 | 学業成就、合格祈願、知恵授け |
ご神徳の特徴 | 平安時代の実在の人物で、死後にその優れた学問と人格が称えられ神格化されました。現在では「学問の神様」として全国で広く信仰されています。 |
菅原道真公(すがわらのみちざねこう)は、平安時代の実在した貴族で、特に学問に優れた朝廷の高官として知られています。
幼少期から才学に秀で、右大臣にまで昇進しましたが、政争により大宰府へ左遷され、失意のうちに現地で亡くなりました。
その後、都では落雷や疫病が相次ぎ、道真公の祟りと恐れられました。
朝廷はその怨霊を鎮めるために、道真公を「天満大自在天神」として神格化し、これが「天満宮」や「天神社」の信仰の広がりの起点となりました。
水神社
寳登山神社の境内に鎮座する「水神社(すいじんじゃ)」は、宝登山の自然から湧き出る水を神聖なものとしてお祀りする境内社です。


この社には、山から流れ出る清らかな水が「御神水(ごしんすい)」として今もこんこんと湧き出ています。
水神社は、生命の根源ともいえる「水」への感謝と祈りが込められたお社であり、健康・生活の安寧・清浄の象徴として信仰されています。
招魂社
寳登山神社の境内にある招魂社(しょうこんしゃ)は、明治・大正・昭和の戦争で国に尽くし、命を落とした長瀞町出身の方々を祀る社です。


境内に整えられたこの社では、春と秋の彼岸に慰霊祭が営まれています。
社殿前には戦歿者(せんぼつしゃ)のお名前が掲示され、毎年、顕彰のための正式な祭典が行われています。
境内案内にもその存在が記されており、戦歿者の記憶を伝える場として大切に受け継がれています。
神楽殿
寳登山神社の神楽殿(かぐらでん)は、神楽を奉奏するための舞台で、祭典の際に神楽が演じられる場所です。


正面には「神人和楽(しんじんわらく)」の額が掲げられ、神楽の本義を示しています。
神楽とは、本来「神座(かみくら)」を設けて神を招き、舞と音楽を通して慰める神事であり、寳登山神社では、例祭(4月3日)、歳旦祭(1月1日)、節分祭(2月)などの祭典時に奉納されます。
当地の神楽は、秩父神社系の流れをくむもので、長瀞町の指定文化財にもなっています。
秩父地方には6つの系統の神楽が伝えられていますが、秩父系の特徴は、神話に基づいた黙劇形式の舞が多く、「神代神楽(じんだいかぐら)」とも呼ばれています。
また、舞台奥の中央に神座を設け、湯立神楽(ゆたてかぐら)の形式を含むことから、正面の欄干には羽釜(はがま)が吊るされており、煮えた湯を笹葉でまき散らし、祓い清めを行う舞(天鈿女命の舞)も伝えられています。
手水舎
寳登山神社の手水舎(てみずや/ちょうずや)は、参拝前に手や口をすすいで身を清めるための施設です。


現在は感染症対策のため、柄杓は設置されておらず、流れ出る清水をそのまま使って清める方式に変わっています。
従来の作法とは異なりますが、参拝前に手水をとる意味は変わりません。
手水舎では、落ち着いて手と口を清めてから本殿へ向かいましょう。
授与所(お守り、ご朱印)
寳登山神社の授与所では、各種お守りやお札、ご朱印、おみくじ、絵馬などが授与されています。


境内の社務所にて受けられ、参拝後に立ち寄る方が多く見られます。
信仰や願いごとにあわせた多彩なお守りが用意されており、特に「吉祥寶守」や「おたから小判守」などが人気です。
※授与品の詳細については、別記事で詳しくご紹介していますので、よろしければそちらもご覧ください。


※授与品の内容や初穂料は時期により変更される場合があります。最新情報は公式サイトまたは現地でのご確認をおすすめします。
車祓い所
寳登山神社の「車お祓い所」は、交通安全や車両のお祓いを目的とした祈祷所です。


新車・中古車を問わず、安全運転を願う方々が訪れ、境内に車を乗り入れてお祓いを受けることができます。
相生の松
寳登山神社の「相生の松(あいおいのまつ)」は、境内の入口付近に立つクロマツ(黒松)とアカマツ(赤松)の2本の松で、昭和天皇の御成婚(1924年)を記念して地元の青年団により植樹されたと伝えられています。


黒松は男性、赤松は女性を象徴し、並んで寄り添う姿から「縁結び」「夫婦和合」の象徴とされています。
そばには、「皇太子殿下御成婚奉祝唱歌」の記念碑が建てられています。
その他の境内施設
社務所(祈願受付)


寳登山神社の社務所では、交通安全・厄除け・家内安全などのご祈願の受付、および参拝者への案内業務を行っています。
【受付時間】
・4月〜9月:午前8時30分〜午後5時
・10月〜3月:午前8時30分〜午後4時30分
※都合により変更される場合がありますので、詳細は現地または公式サイト等でご確認ください。
参集殿


寳登山神社の参集殿(さんしゅうでん)は、祭典終了後の直会(なおらい)や団体参拝者の休憩所として使用されている建物です。
神社の祭事にあわせて人々が集い、飲食や交流、休憩の場として利用されるほか、団体参拝の控室や地域行事・各種催しの会場としても活用されています。
また、一階休憩所は個人で祈願に訪れた参拝者の待機所や休憩所としてもご利用できます。
※参集殿二階は基本的に一般の方は立入禁止となっています。ご注意下さい。
記念館(齋館)


寳登山神社の「記念館(齋館)」は、皇紀2600年(1940年)を記念して昭和15年(1940年)に着工され、戦時下の困難を経て昭和17年(1942年)に竣工した建物です。
現在は「齋館(さいかん)」として、また各種催し物の会場としても利用されています。
記念館の裏側には小さな池もあり、神社の歴史を伝えるとともに、落ち着いた雰囲気の施設となっています。
寳登山神社の売店(おみやげ)


寳登山神社の境内にある「ヤマブ宝登山売店」では、秩父名物として知られる味噌だれ団子「黄金だんご」を販売しています。
炭火で丁寧に焼き上げられた団子は、外は香ばしく中はもちもち。
特製の味噌だれがたっぷり絡み、ほんのり甘じょっぱい味わいが後を引きます。
ひと口食べると、香ばしい味噌の香りと団子のやわらかさが絶妙に広がり、参拝後のひと休みにぴったりの一品です。
手軽に地元の味を楽しめる、私のおすすめの立ち寄りスポットのひとつです。
玉泉寺とは?
寳登山神社の境内にある「玉泉寺(ぎょくせんじ)」は、真言宗智山派に属する寺院で、かつては寳登山神社の別当寺として神社と深く関わってきた由緒ある存在です。


創建と歴史
玉泉寺は、平安時代の永久元年(1113年または1115年)に、僧・空圓によって開かれたと伝えられています。
開基以来、宝登山大権現(神仏習合時代の神号)の祭祀を担い、755年にわたって神社との関係を築いてきました。
江戸時代には格式ある門跡寺院として京都御室御所の許状を賜り、神社の社殿再建にも尽力したことが記録されています。
明治以降の関係と現在
明治元年(1868年)の神仏分離により形式上は神社と分離されましたが、玉泉寺は境内に留まり、現在も寳登山神社との密接な関係を維持しています。
建物の維持管理は神社側が担い、法要や祭典などでは寺社双方が関わる伝統が継続しています。
本尊と施設
玉泉寺の本尊は「地蔵菩薩」で、江戸時代の寛文7年(1667年)に造立されたものです。
境内には護摩堂や十王堂、山門などの堂宇が並び、静かに信仰を伝えています。
神仏習合の象徴として
玉泉寺は、神社境内に寺院が共存する全国的にも珍しい存在であり、神仏習合の歴史を今に伝える貴重な例とされています。
現在も、神社と寺院が協力して地域の信仰を支えていることから、寳登山神社と玉泉寺は「信仰の原型が残る象徴的な関係」と言えます。
寳登山神社の基本情報と交通アクセス
基本情報
神社名 | 寳登山神社 (ほどさんじんじゃ) |
御祭神 | 神日本磐余彦尊 (かんやまといわれひこのみこと、神武天皇) 大山祇神 (おおやまづみのかみ) 火産霊神 (ほむすびのかみ) |
御神徳 | 火災除け、諸難除け、交通安全、諸願成就、金運招福、厄除けなど |
創建 | 景行天皇40年(西暦110年頃)、日本武尊による創建と伝わる |
主要祭事 | 歳旦祭(1月1日)、例大祭(4月3日)、奥宮大祭(5月2日、八十八夜)、長瀞八坂祭(7月20日)、節分祭(2月)など |
御朱印 | 授与所にて(初穂料500円) ※授与時間・詳細は別記事にてご紹介しています |
所在地 | 埼玉県秩父郡長瀞町長瀞1828 |
TEL | 0494-66-0084 |
受付時間 | 4月~9月 8:30~17:00 10月~3月 8:30~16:30 |
駐車場 | 無料駐車場あり(普通車・大型バスも利用可) |
トイレ | 寳登山並木参道沿いに観光トイレあり(境内にはありません) |
公式ホームページ | 寳登山神社公式ホームページ |
交通アクセス
車の場合 | 関越自動車道「花園IC」より国道140号線、皆野寄居バイパス経由 約25分。 ※皆野寄居バイパスは有料道路です。詳細は埼玉県道路公社ホームページをご確認ください。 |
電車の場合 | 秩父鉄道「長瀞駅」徒歩約15分 ※最新の運賃やその他詳細は秩父鉄道ホームページでご確認ください。 |
地図 | Googleマップで見る |
まとめ
火災除け・盗賊除けの神として信仰される「寳登山神社(ほどさんじんじゃ)」は、日本武尊が山犬の導きで山火事から助けられたという社伝を持つ、由緒ある神社です。


境内には本殿のほか、山頂に鎮座する奥宮や、失くしもの探しで信仰される宝玉稲荷神社、日本武尊ゆかりのみそぎの泉など、歴史と信仰が息づく見どころが点在しています。
秩父鉄道「長瀞駅」から徒歩15分とアクセスも良く、自然と文化に触れながら、心静かに参拝できる場所としても親しまれています。
ぜひ一度、寳登山神社の境内を歩いてみてください。
写真では伝えきれない空気の清らかさや、建物の美しさを実感できると思います。
この記事が、寳登山神社を訪れる際の参考になれば幸いです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
※秩父三社のひとつ「秩父神社」についても、別記事でご紹介しています。




寳登山神社の公式ホームページや埼玉県神社庁公式ホームページ「寳登山神社」、境内の案内板および関連資料をもとに構成しています。(2025年5月時点の公開情報に基づく)
ご紹介しているご神徳(ご利益)は、古くから信仰されている内容に基づくものであり、すべての方に同様の効果を保証するものではありません。
また、神名の表記は「古事記」や「日本書紀」、もしくは一般的な表記を使用していますが、祭神やご神体の名称、ご利益の内容は、地域や神社、神仏習合の影響により異なる場合があります。 本記事の由緒・ご祭神・ご神徳・彫刻・境内社等に関する情報は、